2009年7月30日木曜日

山田方谷


山田方谷の本をいただきました。
備中松山藩の人 陽明学者
大政奉還の起草者でもあるそうです。
最初に取り組んだのが、負債整理。
大阪で備中松山藩の財政状況を説明し、借金10万両の猶予を申し入れた。

「借金は必ず返済する。踏み倒すつもりは毛頭ござらん。
伏してお願い申す。
その手立てだが、米に頼らず、産業を興す。すれば必ず借金は返せる。」
示した再建計画(産業振興策)が緻密で、商人たちの心を動かした。
そして、利子の免除、50年の借金棚上げ承認を取り付ける。
「産業振興策」
備中にある砂鉄を使った農具の商品開発
備中鍬の誕生
備中鍬は、3本の大きなつめを持ったホークのような鍬で、従来の鍬に比べて、土を掘り返すのに適した便利な鍬である。
従来品に比べて作業効率がよい備中鍬の生産は、借金を返済できる大ヒット商品となった。

「政で大切なことは、民を慈しみ、育てることである。それは、大きな力となる。厳しい節約や倹約だけでは、民は萎縮してしまう。」

また、自ら開墾を行い、農産物の特産品づくりに精を出した。
タバコ、茶、こうぞ、そうめん、菓子、高級和紙など、その特産品を「備中」のネーミングで売り出した。
ブランド品の誕生。
販売方法についても、外国船を購入。
江戸に物資を運び、板倉江戸屋敷で直接販売する方法を確立。
当時は産物を大阪に卸すのが常識であった、とある。

方谷は、商品を江戸に持っていき江戸での直接販売に目をつけた。
中間マージンを排除し、安いよい品を直接消費者に販売し、それによって利益を上げた。
いまのアンテナショップの開設である。
備中松山藩内に「撫育局」を設置し生産・流通・販売を藩の直営とした。
商業が低く見られていたこの時代に藩そのものを会社組織に変えた。

「年貢がいくら入る。利子はいくら払わないといけない。」というような「現状の延長」で考えると絶望的であるが、
「売り物を作る」
「計画を立てて、長期ビジョンを持って、パフォーマンスをする」
事で事業を興した
そしてその後、藩札の信用回復に手をつけ経済の混乱を収束させたという山田方谷

商品開発
ネーミング
ブランド戦略

現状認識からアイディアを出す。

基本はずっと変わらない。


   

2009年7月28日火曜日

ふたり


おふたりが遠くに見ているものは何だろう

帰し方を振り返る

そんな気配が漂う

白く飛んだ向こうの景色は・・・

見る人それぞれです。